古文書2 送り手形


伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書には元禄九年(1696)に美濃の国の徳田村の庄屋藤兵衛の姉が尾張の国の八幡村に嫁いで来る時に出された手形です。

 

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元禄はお犬様で知られる五代将軍綱吉の時代です。町人が財力を持ち台頭してきて井原西鶴近松門左衛門尾形光琳松尾芭蕉らが活躍し町人文化が花開いています。赤穂浪士に依る吉良邸討入りがあったのは元禄十五年です。農村では農業技術、農機具が発展して農業生産が増大しています。農村の暮らし向きも幾らか良くなりつつあったのでしょうか。

この時、美濃の国の徳田村から庄屋の姉が国を越えて久太夫の所へ嫁に来ています。久太夫は伊冨利部神社の神主です。この「久太夫所へ」とは久太夫の居る八幡村の事か或は久太夫本人もしくはその忰の事なのかはっきりしません。

もっとよくわからない事は「禅宗で笹野村の光明寺」とはどのお寺なのかです。笹野村にある禅宗のお寺は妙光寺です。光明寺は笹野村の直ぐ近くで別の村の光明寺村にあり天台宗です。どちらも由緒があり現在も続いている立派なお寺です。果たしてここに出て来るお寺はどちらなのでしょう。

どちらのお寺にも直接お話をうかがいましたが檀家はほとんど近くの方で徳田村に檀家があった形跡がありません。当時このあたりの宗旨は本願寺が多かったようです。伊冨利部神社にも神宮寺として本願寺のお寺がありました。他宗派の禅宗天台宗の区別がつかなかったのか、或は少し離れた村なので光明寺村と笹野村とを間違えたのかどちらかだと思われますが確証はありません。何れにしろ吉利支丹でない事の証明が重要だったのでしょう。

もう一つはこの頃より「吉利支丹」を「切支丹」と書くように変わっています。これは将軍綱吉をはばかって「吉」の字を使わなくなったと幾つかの文献に載っています。これに依ってこの文書が元禄時代の本物である事が裏付けられます。

 

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