古文書4 享保の由緒書

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は享保三年(1716)に神社の由緒を寺社奉行所へ報告したものです。享保年間はテレビドラマでも有名な暴れん坊将軍吉宗や南町奉行大岡越前守がいました。

文書は5ページありますので先頭部と最後部を掲載しました。

f:id:thimiko:20210603163016j:plain

 

f:id:thimiko:20210603163100j:plain

この文書では「伊冨利部神社は往古よりの格別の大社」であるといってます。文中の「式内の御社」とは延喜式神名帳に記載されている神社の事です。

延喜式平安時代中期に編纂された律令を施行する規範となった法典であり、ここに載っているという事は平安時代から神社が存在していた証です。現在でも式内社の多くは神社の入り口にある石柱等に「式内〇〇〇神社」と誇らしげに「式内」の文字を入れている所が多いです。

神社にある他の古文書にも伊冨利部神社はかつては本社、末社、殿閣、連なり楼門高くそびえていて神官の屋宅比甍とあります。一ノ鳥居は現在の神社より南に700mほどの所に有ったとあり、今そこは西宮社となっています。

康正元年(1455)に神社は大火で焼失し記録も悉く消滅してしまいましたが天正十年(1582)に再建されています。この年は織田信長本能寺の変で討たれた時です。その後江戸時代初期に徳川幕府による備前検地にて五町八反余りの神領を五反余りと十分の一ほどに減らされています。五町八反とは名古屋ドームより大きい敷地です。

f:id:thimiko:20210603181541j:plain

話は戻りますが式内社葉栗郡に十座ありました。地図中の〇印です。実際にはこの地図の位置とはズレていたかも知れません。それは延喜式に載っている神社が今のどの神社にあたるか確定出来ず、候補地が2ヶ所以上ある所があります。また火事や洪水で場所を移動したとの伝えがある所もあります。それらを考えに入れてもほぼ上記の地図中の位置と近い所にあったであろうと推測出来ます。

地図を見ますと岐阜県にも葉栗郡の神社がある事になってしまいます。それは時代の移り変わりに依り行政区域が変わってきたからです。

私の子供の頃、葉栗郡木曽川町の1町しかありませんでした。今から50年以上前の事です。今回神社の古文書から何故1郡に1町しかなかったのか以前から少しは知っていましたが、詳しく知りたくなり調べてみました。

江戸時代は佐千原、北方、光明寺、浅井、宮田、飛保、草井など多くの町村が葉栗郡でした。更にもっと昔は今の岐阜県までまたがっていました。天正十四年(1586)に大洪水が起きて木曽川の流れが大きく変わりました。尾張と美濃の境界が境川でしたが洪水に依って出来た一番大きな流れ(今の木曽川)を国境に豊臣秀吉が変えたようです。葉栗郡は半分ほど美濃になり美濃側を羽栗郡と改称されました。中島郡、海西郡(現在の海部郡あたり)も一部は美濃になっています。上記は現代の地図ですから川の位置も当時とは幾らかは違っていただろうと思われますが大体の様子はうかがえます。

太閤記木下藤吉郎が信長の命を受けて墨俣に一夜城を築く話がよく出て来ます。以前から墨俣城の場所は知っていましたが尾張と美濃の国境にしては随分美濃側に入った所にあると思っていました。なるほどこの地図を見ると当時はこの当たりが国境であったであろうと納得出来ます。(墨俣一夜城は史実として証明されていない様ですが場所の情景としては思い馳せるものがあります)

一宮市は元、中島郡一宮村が発展して周辺の中島郡、葉栗郡、丹羽郡の市町村を吸収合併して大きくなったものです。木曽川町は1町だけ葉栗郡に残っていましたが2005年に一宮市に合併しました。私には孤軍奮闘してきたものの最後にはとうとうむなしく一宮市の軍門に下ったとの思いがあります。今は葉栗郡、中島郡は消滅してしまい淋しい限りです。

これも時代の流れでしょうか。私は大きな市は確かに財政的な力があり公共施設等充実出来る面はありますが合併された小さな市町村は全体の中に埋没してしまう様な気がします。

以前木曽川町の歴史について一宮市教育委員会に尋ねた事がありましたが、市では内容については合併時に木曽川町からそのまま引き継いただけで全くわからないとの事でした。

各地域にはその地域に根ざした独自の歴史、文化、経済があるだろうと思います。それを大切に守り育てる独立した地方自治は必要なものではないかと思います。大型合併は幾ら合併前の独自制を尊重するといっても一部の特徴的なものだけがとりざたされるだけで多くのものは失われていきます。確かに小さな自治体では公共の利便性に劣る所は否めませんが、小さな自治体はそれぞれが我慢する所を我慢し、大きな自治体は国や県の立場からも大きな度量を持って小さな自治体を援助すると言う訳にはいかないかと思います。考えが甘いですか。

享保時代の古文書からつい愚痴っぽい話になりました。