古文書1-1 天明の太鼓

                                         伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書には天明六年(1786) に名古屋で神楽太鼓を買ったとあります。最後尾の署名「林久太夫」はこの神社の神主で十数代続いています。名前も林久太夫を代々引き継がれています。

 

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下記は私の古文書の先生が解読した文ですが確定出来ない所があります。

 

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この古文書はある著名な方の読まれたもので文献になっているものがあります。それによると3行目「金弐分拾弐」が「金弐分拾弐」、10行目「惣〆壱弐百文」が「惣〆壱弐百文」となっています。当時の林久太夫さんはどう書いたのか今となっては知る由もなくただ想像するだけですが次のように検討して見ました。 

 

江戸時代流通貨幣は「金」と「銀」と「銭」が併用されていました。

 

   金は 1両=4分 1分=4朱

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銀は重さで何匁で 銀60匁=金1両 銀15匁=金1分

             

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銭は 1貫文=1000文=金1分 

 

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          銭(寛永通宝

                               

金2分12であれば12は3分ですから5分とすれば良い筈です。やはり何か違うような気がします。12匁であれば15匁で1分ですから1分より少し少なく済むのでそれを銀で払ったのではないかと思えます。現代で言えば 3,000円の所を2,980円とするのと似ているような気がします。

惣〆の方は6人の寄付額の合計が1,200文になるのでその事をいっているのではないでしょうか。寄付額合計と太鼓の代金と合わないと言う問題は残りますがそこはよく分からないところです。

 

この時代は天候不順によって農作物が不作となり大変な時でした。世に言う天明の大飢饉です。東北地方では多くの餓死者が出ています。江戸、大坂では「打ちこわし」が起き世間は荒れ狂っていました。

そのような時にこの尾張の片田舎門間村ではさほど自然災害の影響はなかったのでしょうか。暮れも押し迫った12月24日に葉栗郡門間村から20km程も離れた名古屋へ太鼓を買いに行っています。農民ですからきっと徒歩で出掛けたのでしょう。

現在神社に写真の太鼓が有ります。いかにも古そうな太鼓です。何か書かれてものはないか調べて見ましたが何も見つかりませんでした。この太鼓が古文書にある天明の太鼓である確証がなく残念です。

 

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