古文書5-2 寛保の由緒書

古文書5-1の続きです。

ここでは神社の祭礼が毎年盛大に行われていた事や焼失、再建などについて書かれています。

康正元年(1455)に焼失し、天正十年三月(1582)に再建されたとあります。康正元年は将軍足利義政の時代です。義政は銀閣寺を建てた人です。12年後には応仁の乱が始まるという時代で世間は随分乱れていました。この年には真清田神社も火災にあっています。

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神社には正長元年(1428)に奉納された鰐口があります。鰐口には施主斯波治部大輔義淳、施人福蔵坊と彫り込まれています。斯波義淳とは尾張の守護であり正長元年の翌年からは二度目の足利幕府の管領を務めた人です。

康正元年(1455)に神社は火災にあっているのに鰐口はなぜ焼失せずに残っていたのかが疑問です。

それは明治になってから神仏分離によって仏に関わる物を神社から疎開させた事がありました。その後昭和の初めになって伊冨利部神社の県社昇格運動が起き疎開させていた物を神社へ返還される事になりました。その時他の物と一緒に戻された様です。それまでずっと昔から以覚寺(以前は福蔵坊と称した)に保存されていたのではないかと推測されます。

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伊冨利部神社は天正十年三月に再建されていますが、この年の六月には織田信長本能寺の変で討たれています。

この時代織田、豊臣、徳川の戦いが繰り広げられ黒田城の城主も山内、織田、和田、澤井、一柳、冨永と短期に何人か入れ替わっています。

幾つかの古文書によるとその中でも和田、澤井、一柳の殿様には伊冨利部神社の再建、修復、寄進を随分してもらっています。

特に澤井家は在城年数がそれ程長くはなかったのですが江戸時代になってからも改めて尾張藩重臣となって、伊冨利部神社との関わりを続けています。古文書には年々名古屋城下より馬を引いて伊冨利部神社の祭礼に参詣していたと記録が残っています。

明治になってからは黒田村の初代村長となっていますがその後、御子孫はこの地を離れ疎遠となりました。昭和40年頃に再び縁ができ伊冨利部神社とは近年まで交流がありました。

八幡宮西往還通り・・・」は尾張藩主が岐阜へ通った事が書かれています。江戸時代は岐阜も尾張藩でしたので藩主が名古屋と岐阜を往来していました。そのおりの帰りに伊冨利部神社に参詣したと書かれています。源敬様は初代藩主義直の諡号です。神社には今でも義直より寄進された吊り燈籠が残っています。吊り燈籠に義直の銘が入っています。

古文書の最後は「神意かくかくたる神社に御座います」とこの神社が如何に由緒ある神社であったかと自慢げに語っています。この文書が残っているという事は寛保時代にその様な認識があったのであろうと思われます。