古文書7 神主 林久太夫

 


 伊冨利部神社は延喜式神名帳(927年)に記載されている式内社で古くより由緒ある神社です。神主は林久太夫が代々勤めていました。

 元禄七年(1694)の古文書には康正の頃(1455)大火で焼け、勧請の年数はわからず、中興の建立は和田八郎殿、当年まで百拾壱年、祢宜は拙者まで五代とあります。

      

   元禄七年六月



  


   天保十四年八月

 康正の大火前の神社の痕跡は何もありませんが棟札の写し、言い伝え等(神社古文書中)に本社末社殿閣四序連ねて高くそびえ楼門、鐘堂、宝蔵あり、神官の屋宅の甍が並び社領は一里所とありかなり大きな神社であった事が伺われます。

 大火の後何もない所へ林久太夫がやって来て神社復興に尽力します。久太夫信濃の人との説がありますが根拠は不明です。以後大正時代まで永々と林家が神職を続けていました。
 大火(1455)の約50年後の文亀二年(1502)には社職であったと尾張誌編纂の為の奉行所への書上(天保十四年1843)の中に記載されています。久太夫がこの地にやって来たのはその年より前であった事になります。

 「当年まで百拾壱年」とはこの文書を書いた元禄七年(1694)から逆のぼって再建された天正十年(1582)「中興之建立は和田八郎殿」までの事を言っているだろうと思われます。すでにこれ以前の大永二年(1522)、享禄元年(1528)、弘治二年(1556)にも修復、造営の棟札があったとの記録も残っています。中でも弘治二年の棟札には和田河内守、神主林大和守金吾の名が出てきます。

 和田河内守は名が新助で黒田城主でしたが戦で討ち死に、後に弟八郎が城主を継いでいます。その後城主は澤井雄重、一柳監物と入れ替わっていますがいずれも伊冨利部神社の修復、造営をしています。

 尾張誌編纂の古文書によれば先頭で載せた元禄七年の古文書の筆者久太夫は文亀二年を初代として数えたら六代になります。古文書中の「拙者まで五代」との記述とつじつまが合います。

 他にも歴代神職について書かれた古文書が幾つかありますが大体の整合性が取れています。神社近くには林家のお墓が現存しており江戸後期から明治時代までの久太夫三代の吉勝、吉春、吉信の没年月日が墓石に刻まれています。

 以上を勘案し歴代林久太夫の在職年歴をまとめてみました。

 

    大火  康正元年(1455)      在職年数

  初代    文亀02年(1502)~天文06年(1537) 35年

   2代  天文06年(1537)~元亀06年(1570)  33年 大和守金吾

        3代  元亀06年(1570)~慶長11年(1606)  36年 太郎左衛門

    再建  天正10年(1582) 和田八郎

   4代  慶長11年(1606)~寛永17年(1640)  34年

   5代  寛永17年(1640)~貞享元年(1684)  44年

        6代  貞享元年(1684)~元禄15年(1702)  18年

   7代  元禄15年(1702)~享保03年(1718)  16年 左京

   8代  享保03年(1718)~寛延元年(1748)   30年

   9代  寛延元年(1748)~明和05年(1768)     20年

    10代  明和05年(1768)~文化11年(1814)  46年 

       11代  文化11年(1814)~文政10年(1827)  13年 吉勝

  12代  文政10年(1827)~慶応元年(1865)  38年 相模守吉春 

        13代  慶応元年(1865)~明治43年(1910)  45年 筑前守吉信

        14代  大正04年(1915) 署名あり        錠二郎

  

 




             

 



  但しこれは林久太夫の自称です。全体的にみて各代の在職年数が長すぎるような気がします。また全ての引き継ぎが父子になっているのも無理があるように思われます。

 現在残っている古文書の数が少なく全ての時代のものがそろっている訳でもないので確証がありません。また代々久太夫を名乗っているので何代の久太夫かがはっきりしません。とりあえず古文書の中に名前が出て来る所を拾い出してみました。

 弘治二年(1556)の棟札には「古の由来知れず唯本社のみ今ここに黒田城主和田河内守造営七月二十一日新殿に移り奉る神主林大和守金吾」とあります。この人は2代になります。

 小牧長久手の合戦(1584年頃)の事が書かれた文書では「黒田城主澤井修理が太閤と軍をして祢宜の林太郎左衛門に敵の様子をみて来るように頼んだ」とあります。天正十年(1582)にも太郎左衛門の名前がありますが慶長元年(1600)には久太夫の名前もあります。この人は3代のはずですがこの時代の古文書は残念ながらありません。久太夫と太郎左衛門の名前を使い分けしていたのか別の人がいたのかは分かりません。

 寛政五年(1793)の文書の筆者(10代久太夫)の高祖父が左京とあっります。そうすると左京は6代で貞享元年(1684)から元禄15年(1715)まで在職の人と言う事になります。しかしこの時代の古文書が四通ありまさうがいずれの署名も林久太夫となっています。文化九年(1812)の文書の中に寛政元年(1788)寄進林左京とありますが6代左京とは随分年代が違うので同じ人ではないと思われます。この人も久太夫と左京が同一人物であるかどうか分かりません。

 嘉永二年(1849)に忰源丸と何度か出て来ます。年代的にみて父親は12代久太夫相模守吉春、源丸は13代久太夫筑前守吉春となります。

 名前は代々久太夫を名乗っているのであれば 襲名までの名前があるはずです。久太夫襲名後でも場合によっては違う名前を使う事があったように思われます。金吾、太郎左衛門、左京、源丸等の名前と久太夫とはどのように使い分けをしていたのか、また別人であったのかさだかでは有りません。

 明治初期になって政令等によってか代々林久太夫でなく神主、社掌として新たに賀田秀蔭、大林国雄の名前が出て来ます。しかし明治20年代以降に林吉春、大正4年に林錠二郎の名前が出て来ますのでやはり林家はずっと続いていたと思われます。

 大正9年に小島重義が社掌になっています。昭和4年11月9日に伊冨利部神社が県社に昇格していますがこの時の社掌です。小島家は代々白山神社の神主を勤めておられますのでこの時は兼任されていたと思われます。以後伊冨利部神社の神職として林家は出てこなくなります。昭和10年(1935)藤井栄蔵、昭和23年(1948)服部秀雄、平成10年(1998)服部重夫と宮司を引き継がれ現在に至っています。

 これまでは残されている資料の断片を繋ぎ合わせたものです。ここに現れず埋もれている人がいたかも知れません。役職の呼び方も神主、祢宜、社人、神職、社職、社掌、祇官、社司、宮司といろいろあったようです。古文書の中に「神主と唱え度き旨」を願い出ている文がありました。これは時代によっては神主と勝手に名乗れなかったと言う事が伺えます。

 以上でおおまかなところの伊冨利部神社の神主の経緯が分かりました。以後も新しい発見がある事を願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

古文書6 枇杷島

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は文化九年(1812)に本社を再建した時の文書です。当時の徳川将軍は11代家斉です。

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この文書で注目したのは氏名の所で「枇杷島」「萱津村」の地名が出て来た事です。

枇杷島、萱津村の人が伊冨利部神社の本社再建にあたり何かしらの寄進をしたのではないかと思われます。文中の「六銭講」も寄進の為の組織があったのではないでしょうか。

ここは葉栗郡門間村から随分離れていて名古屋城下に近い所です。交通機関がない時代にこれだけ離れた所まで伊冨利部神社の名が知られていて信仰の対象になっていた事になります。

枇杷島尾張藩の中心が清洲から名古屋に移されたとき家康の勧めで青物、魚の問屋が作られました。その後尾張初代藩主義直によって枇杷島橋が架けられ市場として発展しました。

江戸時代は農村生産地帯と消費地名古屋との連結点として大いに栄えました。熱田の魚市場に対して枇杷島の青果市場として城下町名古屋の台所を預かっていました。かつては江戸の神田、大阪の天満と共に三大青果市場といわれるほどでした。

しかし昭和になってから名古屋市に中央卸売市場が出来ると市場としてはすたれていきました。

古文書5-2 寛保の由緒書

古文書5-1の続きです。

ここでは神社の祭礼が毎年盛大に行われていた事や焼失、再建などについて書かれています。

康正元年(1455)に焼失し、天正十年三月(1582)に再建されたとあります。康正元年は将軍足利義政の時代です。義政は銀閣寺を建てた人です。12年後には応仁の乱が始まるという時代で世間は随分乱れていました。この年には真清田神社も火災にあっています。

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神社には正長元年(1428)に奉納された鰐口があります。鰐口には施主斯波治部大輔義淳、施人福蔵坊と彫り込まれています。斯波義淳とは尾張の守護であり正長元年の翌年からは二度目の足利幕府の管領を務めた人です。

康正元年(1455)に神社は火災にあっているのに鰐口はなぜ焼失せずに残っていたのかが疑問です。

それは明治になってから神仏分離によって仏に関わる物を神社から疎開させた事がありました。その後昭和の初めになって伊冨利部神社の県社昇格運動が起き疎開させていた物を神社へ返還される事になりました。その時他の物と一緒に戻された様です。それまでずっと昔から以覚寺(以前は福蔵坊と称した)に保存されていたのではないかと推測されます。

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伊冨利部神社は天正十年三月に再建されていますが、この年の六月には織田信長本能寺の変で討たれています。

この時代織田、豊臣、徳川の戦いが繰り広げられ黒田城の城主も山内、織田、和田、澤井、一柳、冨永と短期に何人か入れ替わっています。

幾つかの古文書によるとその中でも和田、澤井、一柳の殿様には伊冨利部神社の再建、修復、寄進を随分してもらっています。

特に澤井家は在城年数がそれ程長くはなかったのですが江戸時代になってからも改めて尾張藩重臣となって、伊冨利部神社との関わりを続けています。古文書には年々名古屋城下より馬を引いて伊冨利部神社の祭礼に参詣していたと記録が残っています。

明治になってからは黒田村の初代村長となっていますがその後、御子孫はこの地を離れ疎遠となりました。昭和40年頃に再び縁ができ伊冨利部神社とは近年まで交流がありました。

八幡宮西往還通り・・・」は尾張藩主が岐阜へ通った事が書かれています。江戸時代は岐阜も尾張藩でしたので藩主が名古屋と岐阜を往来していました。そのおりの帰りに伊冨利部神社に参詣したと書かれています。源敬様は初代藩主義直の諡号です。神社には今でも義直より寄進された吊り燈籠が残っています。吊り燈籠に義直の銘が入っています。

古文書の最後は「神意かくかくたる神社に御座います」とこの神社が如何に由緒ある神社であったかと自慢げに語っています。この文書が残っているという事は寛保時代にその様な認識があったのであろうと思われます。

 

 

古文書5-1 寛保の由緒書

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は寛保元年(1741)に神社の由緒を寺社奉行所に報告したものです。ページ数が多いので2回に分ける事にしました。

寛保元年の将軍は八代吉宗です。吉宗は享保元年(1716)に将軍になっていますが将軍を退いた後も大御所として寛延四年(1751)に死ぬまで実権を握っていました。

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現存する古文書と翻刻です。翻刻とはくずし字を現代日本語に変換する事です。
初めに「勧請儀相知レ不申」とありますが以前も触れました通り延喜式神名帳に記載されていますので平安時代には既に伊冨利部神社が存在していた事は明かです。
本社、末社等は移動したり変遷したりしていますが面白そうな事について触れてみたいと思います。
「富士権現」 寛文七年(1667)に奉建宮富士浅間の文書が現存しています。天保時代に執筆された尾張名所図会にも載っていて今でも浅間社としてあります。
ただこの山が一宮市史跡伊冨利部古墳となっていますが古文書、文献等での古墳との伝承はなく疑わしいところがあります。

「辨財天」  江戸時代の古文書の末社には何時も出てきていました。しかし明治以降には出てこなくなり新たに厳島社が出てくるようになりました。この二社の祭神は共に市杵嶋姫命ですが辨財天は仏様でもあります。定かではありませんが明治初期の神仏分離の影響を受けて名前が変わったのではないかという気がします。今ある厳島社は尾張名所図会にある「弁天」と同じ位置にあり周囲には堀があります。

「若宮八幡」 古文書に何度も出てきていて今もほぼ同じ位置にあります。ここは間違いなく昔からこの位置にあったと思われます。

「一ノ鳥居」 神社より南に700mほど行った所に西宮社というお宮があります。そこは且つて伊冨利部神社の一ノ鳥居があったとの伝承が今も残っています。古文書とほぼ一致しています。

 

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      尾張名所図会

 

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      現在の冨利部神社配置図

文書中の「八幡宮神領古来田畑五町八反八畝・・・」これは江戸初期に伊奈備前守による検地で神領地を十分の一に減らされた事をいっています。検地前の広さは58,271㎡(17,640坪)でナゴヤドームの建設面積より広い面積になります。検地後の五反余りは除地(年貢を免除される土地)で実際にはこのほかに神社の土地はあったと思われます。現在でもこれよりはかなり広く一宮市の神社の中ではたぶん真清田神社に次ぎ二番目くらいの面積があると思われます。

八幡宮社僧弐ヶ寺 福蔵坊 明忍寺」 当時神社には神宮寺という神社と関わりが深いお寺がありました。伊冨利部神社には福蔵坊と明忍寺と二ヶ寺あり、福蔵坊は宗派を替え名前も以覚寺と改称したとあります。このお寺は今も存続しています。もう一つの明忍寺とはどのようなお寺で何時まであったかがわりません。神社の東側に明応寺という地名がありますが今は当たり一面田んぼと畑です。

一宮図書館にある葉栗史誌に明治38年に水田より仏像が出土し、昔からこの地区で瓦や材木が出てきており寺院があったと言伝えられていると載っていました。はたして明忍寺との関係はあるのか、たまたま字が似ているだけなのかいまのところ何もわかっていません。

以上の様な事から伊冨利部神社は昔かなり大きな神社であった事が伺われます。

 

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古文書4 享保の由緒書

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は享保三年(1716)に神社の由緒を寺社奉行所へ報告したものです。享保年間はテレビドラマでも有名な暴れん坊将軍吉宗や南町奉行大岡越前守がいました。

文書は5ページありますので先頭部と最後部を掲載しました。

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この文書では「伊冨利部神社は往古よりの格別の大社」であるといってます。文中の「式内の御社」とは延喜式神名帳に記載されている神社の事です。

延喜式平安時代中期に編纂された律令を施行する規範となった法典であり、ここに載っているという事は平安時代から神社が存在していた証です。現在でも式内社の多くは神社の入り口にある石柱等に「式内〇〇〇神社」と誇らしげに「式内」の文字を入れている所が多いです。

神社にある他の古文書にも伊冨利部神社はかつては本社、末社、殿閣、連なり楼門高くそびえていて神官の屋宅比甍とあります。一ノ鳥居は現在の神社より南に700mほどの所に有ったとあり、今そこは西宮社となっています。

康正元年(1455)に神社は大火で焼失し記録も悉く消滅してしまいましたが天正十年(1582)に再建されています。この年は織田信長本能寺の変で討たれた時です。その後江戸時代初期に徳川幕府による備前検地にて五町八反余りの神領を五反余りと十分の一ほどに減らされています。五町八反とは名古屋ドームより大きい敷地です。

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話は戻りますが式内社葉栗郡に十座ありました。地図中の〇印です。実際にはこの地図の位置とはズレていたかも知れません。それは延喜式に載っている神社が今のどの神社にあたるか確定出来ず、候補地が2ヶ所以上ある所があります。また火事や洪水で場所を移動したとの伝えがある所もあります。それらを考えに入れてもほぼ上記の地図中の位置と近い所にあったであろうと推測出来ます。

地図を見ますと岐阜県にも葉栗郡の神社がある事になってしまいます。それは時代の移り変わりに依り行政区域が変わってきたからです。

私の子供の頃、葉栗郡木曽川町の1町しかありませんでした。今から50年以上前の事です。今回神社の古文書から何故1郡に1町しかなかったのか以前から少しは知っていましたが、詳しく知りたくなり調べてみました。

江戸時代は佐千原、北方、光明寺、浅井、宮田、飛保、草井など多くの町村が葉栗郡でした。更にもっと昔は今の岐阜県までまたがっていました。天正十四年(1586)に大洪水が起きて木曽川の流れが大きく変わりました。尾張と美濃の境界が境川でしたが洪水に依って出来た一番大きな流れ(今の木曽川)を国境に豊臣秀吉が変えたようです。葉栗郡は半分ほど美濃になり美濃側を羽栗郡と改称されました。中島郡、海西郡(現在の海部郡あたり)も一部は美濃になっています。上記は現代の地図ですから川の位置も当時とは幾らかは違っていただろうと思われますが大体の様子はうかがえます。

太閤記木下藤吉郎が信長の命を受けて墨俣に一夜城を築く話がよく出て来ます。以前から墨俣城の場所は知っていましたが尾張と美濃の国境にしては随分美濃側に入った所にあると思っていました。なるほどこの地図を見ると当時はこの当たりが国境であったであろうと納得出来ます。(墨俣一夜城は史実として証明されていない様ですが場所の情景としては思い馳せるものがあります)

一宮市は元、中島郡一宮村が発展して周辺の中島郡、葉栗郡、丹羽郡の市町村を吸収合併して大きくなったものです。木曽川町は1町だけ葉栗郡に残っていましたが2005年に一宮市に合併しました。私には孤軍奮闘してきたものの最後にはとうとうむなしく一宮市の軍門に下ったとの思いがあります。今は葉栗郡、中島郡は消滅してしまい淋しい限りです。

これも時代の流れでしょうか。私は大きな市は確かに財政的な力があり公共施設等充実出来る面はありますが合併された小さな市町村は全体の中に埋没してしまう様な気がします。

以前木曽川町の歴史について一宮市教育委員会に尋ねた事がありましたが、市では内容については合併時に木曽川町からそのまま引き継いただけで全くわからないとの事でした。

各地域にはその地域に根ざした独自の歴史、文化、経済があるだろうと思います。それを大切に守り育てる独立した地方自治は必要なものではないかと思います。大型合併は幾ら合併前の独自制を尊重するといっても一部の特徴的なものだけがとりざたされるだけで多くのものは失われていきます。確かに小さな自治体では公共の利便性に劣る所は否めませんが、小さな自治体はそれぞれが我慢する所を我慢し、大きな自治体は国や県の立場からも大きな度量を持って小さな自治体を援助すると言う訳にはいかないかと思います。考えが甘いですか。

享保時代の古文書からつい愚痴っぽい話になりました。

 

 

 

古文書3 天保の石灯籠

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は天保五年(1834)神社境内に石燈籠を寄付した人の名前が書かれています。

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以前より神社境内に江戸時代の石燈籠がある事は知っていましたので調べてみましたら、石燈籠に刻まれている年と同じ年の古文書を見付けました。この古文書は拝殿脇にある下記写真の石燈籠を寄付した時の文書である事がわかりました。

更によく見てみると「古文書1-3」で記載した駒犬の台座に田中茂右衛門、田中新蔵の名前があり古文書の中の茂右衛門、新蔵と同じ名前です。石燈籠を寄付した天保五年(1834)から駒犬を寄付した萬延元年(1860)までは26年です。茂右衛門は黒田村の大地主で何代も同じ名前を継がれている事はわかっています。このお二人は同一人物かその名前を受け継いだ親族の方であると思われます。

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神社には幾つかの古文書がありますが、それらは湿気っていて虫食いがひどく触れると体がかゆくなる様な状態で雑然と放置されていました。よく見ると年代も内容も全く異なるものが「こより」で綴じられていて、あたかも同一文書のようになっているものもありました。

何時の時代に誰がどのようにこれらの古文書を扱ったのかもわかっていません。でもそれらを根気に紐解いていくと何かしら当時の情景を垣間見えるものがあります。

今回たまたまそのなかで実際に現在ある石燈籠を寄付した時の文書を偶然にも発見したのは正に驚きと喜びとで感慨深いものでした。

この時代は天保三年に江戸で鼠小僧が捕まり小塚原で処刑されています。八年には大阪で大塩平八郎の乱が起きています。その後水野忠邦が老中首座に就いて天保の改革を推し進め庶民の生活は圧迫され苦しんでいます。

この時今でも時代劇で馴染み深い遠山金四郎が北町奉行に就き庶民の味方をしたといわれています。芝居小屋も廃止されるところでしたが移転に留めたのでその事に感謝して芝居関係者が「遠山の金さん」を上演して人気を博した事が現代に繋がっているそうです。

明治も間近に迫っています。(明治元年は1868年)

 

神社にはこの他に江戸時代の石造物が幾つか残っていますので紹介します。

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 若宮社石燈籠 天明七年(1787)     手洗い鉢 天保六年(1835)

 

 

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拝殿赤門横 蝋燭立て 天保十年(1839)  拝殿脇 駒犬 萬延元年(1860)

 

 

古文書2 送り手形


伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書には元禄九年(1696)に美濃の国の徳田村の庄屋藤兵衛の姉が尾張の国の八幡村に嫁いで来る時に出された手形です。

 

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元禄はお犬様で知られる五代将軍綱吉の時代です。町人が財力を持ち台頭してきて井原西鶴近松門左衛門尾形光琳松尾芭蕉らが活躍し町人文化が花開いています。赤穂浪士に依る吉良邸討入りがあったのは元禄十五年です。農村では農業技術、農機具が発展して農業生産が増大しています。農村の暮らし向きも幾らか良くなりつつあったのでしょうか。

この時、美濃の国の徳田村から庄屋の姉が国を越えて久太夫の所へ嫁に来ています。久太夫は伊冨利部神社の神主です。この「久太夫所へ」とは久太夫の居る八幡村の事か或は久太夫本人もしくはその忰の事なのかはっきりしません。

もっとよくわからない事は「禅宗で笹野村の光明寺」とはどのお寺なのかです。笹野村にある禅宗のお寺は妙光寺です。光明寺は笹野村の直ぐ近くで別の村の光明寺村にあり天台宗です。どちらも由緒があり現在も続いている立派なお寺です。果たしてここに出て来るお寺はどちらなのでしょう。

どちらのお寺にも直接お話をうかがいましたが檀家はほとんど近くの方で徳田村に檀家があった形跡がありません。当時このあたりの宗旨は本願寺が多かったようです。伊冨利部神社にも神宮寺として本願寺のお寺がありました。他宗派の禅宗天台宗の区別がつかなかったのか、或は少し離れた村なので光明寺村と笹野村とを間違えたのかどちらかだと思われますが確証はありません。何れにしろ吉利支丹でない事の証明が重要だったのでしょう。

もう一つはこの頃より「吉利支丹」を「切支丹」と書くように変わっています。これは将軍綱吉をはばかって「吉」の字を使わなくなったと幾つかの文献に載っています。これに依ってこの文書が元禄時代の本物である事が裏付けられます。

 

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