古文書6 枇杷島

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は文化九年(1812)に本社を再建した時の文書です。当時の徳川将軍は11代家斉です。

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この文書で注目したのは氏名の所で「枇杷島」「萱津村」の地名が出て来た事です。

枇杷島、萱津村の人が伊冨利部神社の本社再建にあたり何かしらの寄進をしたのではないかと思われます。文中の「六銭講」も寄進の為の組織があったのではないでしょうか。

ここは葉栗郡門間村から随分離れていて名古屋城下に近い所です。交通機関がない時代にこれだけ離れた所まで伊冨利部神社の名が知られていて信仰の対象になっていた事になります。

枇杷島尾張藩の中心が清洲から名古屋に移されたとき家康の勧めで青物、魚の問屋が作られました。その後尾張初代藩主義直によって枇杷島橋が架けられ市場として発展しました。

江戸時代は農村生産地帯と消費地名古屋との連結点として大いに栄えました。熱田の魚市場に対して枇杷島の青果市場として城下町名古屋の台所を預かっていました。かつては江戸の神田、大阪の天満と共に三大青果市場といわれるほどでした。

しかし昭和になってから名古屋市に中央卸売市場が出来ると市場としてはすたれていきました。