古文書5-1 寛保の由緒書

伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書は寛保元年(1741)に神社の由緒を寺社奉行所に報告したものです。ページ数が多いので2回に分ける事にしました。

寛保元年の将軍は八代吉宗です。吉宗は享保元年(1716)に将軍になっていますが将軍を退いた後も大御所として寛延四年(1751)に死ぬまで実権を握っていました。

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現存する古文書と翻刻です。翻刻とはくずし字を現代日本語に変換する事です。
初めに「勧請儀相知レ不申」とありますが以前も触れました通り延喜式神名帳に記載されていますので平安時代には既に伊冨利部神社が存在していた事は明かです。
本社、末社等は移動したり変遷したりしていますが面白そうな事について触れてみたいと思います。
「富士権現」 寛文七年(1667)に奉建宮富士浅間の文書が現存しています。天保時代に執筆された尾張名所図会にも載っていて今でも浅間社としてあります。
ただこの山が一宮市史跡伊冨利部古墳となっていますが古文書、文献等での古墳との伝承はなく疑わしいところがあります。

「辨財天」  江戸時代の古文書の末社には何時も出てきていました。しかし明治以降には出てこなくなり新たに厳島社が出てくるようになりました。この二社の祭神は共に市杵嶋姫命ですが辨財天は仏様でもあります。定かではありませんが明治初期の神仏分離の影響を受けて名前が変わったのではないかという気がします。今ある厳島社は尾張名所図会にある「弁天」と同じ位置にあり周囲には堀があります。

「若宮八幡」 古文書に何度も出てきていて今もほぼ同じ位置にあります。ここは間違いなく昔からこの位置にあったと思われます。

「一ノ鳥居」 神社より南に700mほど行った所に西宮社というお宮があります。そこは且つて伊冨利部神社の一ノ鳥居があったとの伝承が今も残っています。古文書とほぼ一致しています。

 

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      尾張名所図会

 

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      現在の冨利部神社配置図

文書中の「八幡宮神領古来田畑五町八反八畝・・・」これは江戸初期に伊奈備前守による検地で神領地を十分の一に減らされた事をいっています。検地前の広さは58,271㎡(17,640坪)でナゴヤドームの建設面積より広い面積になります。検地後の五反余りは除地(年貢を免除される土地)で実際にはこのほかに神社の土地はあったと思われます。現在でもこれよりはかなり広く一宮市の神社の中ではたぶん真清田神社に次ぎ二番目くらいの面積があると思われます。

八幡宮社僧弐ヶ寺 福蔵坊 明忍寺」 当時神社には神宮寺という神社と関わりが深いお寺がありました。伊冨利部神社には福蔵坊と明忍寺と二ヶ寺あり、福蔵坊は宗派を替え名前も以覚寺と改称したとあります。このお寺は今も存続しています。もう一つの明忍寺とはどのようなお寺で何時まであったかがわりません。神社の東側に明応寺という地名がありますが今は当たり一面田んぼと畑です。

一宮図書館にある葉栗史誌に明治38年に水田より仏像が出土し、昔からこの地区で瓦や材木が出てきており寺院があったと言伝えられていると載っていました。はたして明忍寺との関係はあるのか、たまたま字が似ているだけなのかいまのところ何もわかっていません。

以上の様な事から伊冨利部神社は昔かなり大きな神社であった事が伺われます。

 

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