古文書1-3 文政の太鼓の新発見
「古文書1-2文政の太鼓」で新たな発見をしました。太鼓の内側を見た時に紙が貼ってあったのはわかったのですが随分虫に喰われていてとても読めそうもなかったので無視していました。でも後で思い直して解読に挑戦してみる事にしました。
神社にある古文書の中に年数が書かれている場合はたいてい「元禄七年戌六月」のように元号、年、干支、月が書かれている事が多いです。ここに貼ってある紙には「庚閏三年 ▢月二十八日 張替キシン 黒田村 田中茂右衛門」と書かれているように見えます。
閏は現在では4年1度、2月29日がある事をいいます。太陰暦では太陽暦よりもズレが大きいのでそれを修正する為に2~3年に1度閏月をもうけていました。例えば明治三年は閏十月がありました。この年は普段の十月と別に閏十月があり、1年が13ヶ月でした。ちなみに明治六年より太陽暦が使われるようになりましたので閏月はなくなりました。
明治三年の干支は「庚午」です。古文書に年月が記載されている場合ほとんど干支が書かれています。たいてい十二支の「午」とか六十干支の「庚午」と書かれていますが六十干支の上の「庚」だけのものは余り見た事がありません。果たしてどう書いてあるだろうかと思いましたが次の事から明治三年ではないかという気がしてきました。
この太鼓が最初に作られたのが文政元年(1818)であれば明治三年(1870)までは52年です。この頃に張替えする事はおかしくないと思えます。
もう一つ発見した事があります。現在神社拝殿脇に石の駒犬が一対あります。この駒犬の寄付が萬延元年(1860)で黒田村田中茂右衛門他4人の名前が台座に刻まれています。すると萬延元年に駒犬を寄付した田中茂右衛門さんが10年後の明治三年に太鼓の張替えをした事になるとつじつまが実によくあいます。
ここで又々思い出した事があります。以前田中さんという酒造屋が黒田にあった事です。神社とお酒は関わりが多そうなので調べてみましたら酒造屋さんはすでに廃業されていましたがそちらは分家で隣が御本家である事がわかりました。
そこでそのお宅を訪ねてみましたが田中茂右衛門さんはこちらの御先祖で間違いありませんでした。田中家は以前このあたりの大地主であり神社への寄付があったのであろうと思われます。
田中家の御子孫は現在も御健在で活躍されています。しかし御先祖が伊冨利部神社に寄付されていた事は御存知ありませんでしたのでお伝えしましたらとても喜んでいただけました。ただ残念ですがその事の記録等残っているものはないそうです。
今回の事は「古文書1-1天明の太鼓」で紹介しました神社に現存する天明時代の一枚の古文書を解読しようとした所から始まりまして、それが戸棚で眠っていた太鼓の発見、更にその太鼓の中の虫に喰われた貼紙に興味を持つ事によって萬延時代の寄付された方の事や現在に至る事までたどれたのは実に面白かったです。
古文書1-2 文政の太鼓
「古文書1-1天明の太鼓」で太鼓の事を書きましたが、その天明六年(1786)に買われたと思われる太鼓が伊冨利部神社にあります。
いかにも古そうな太鼓ですがよく見ても時代を特定出来るものはなく古文書の太鼓だと言う確証がありません。
津島市に太鼓屋さんがあります。この太鼓屋さんは900年以上続いた老舗です。ひょっとしておもしろい話が聞けないかと思い訪ねて行き太鼓を見て貰いました。
太鼓屋さんによれば外見だけでは天明時代の物かどうかは判断出来ない。特に胴のところに漆が塗ってあるが本当の良い太鼓には塗ってないと言われました。皮はよく張り替えることがあり、胴も修理の時に漆を塗る事があるそうです。
太鼓は胴の内側に製作のなれそめが書かれている事が多いですがこの太鼓は今でもいい音がなります。中を見てみたいのですが皮は一度剥がしていまうとまた元のように復元するのは出来ないと言う事なので残念です。
この太鼓を調べていた時ふと思い当たる事があり探してみましたらもう一つの太鼓が出て来ました。太鼓の内側には製作された時のなれそめが書かれていました。文政元年(1818)尾州海東郡津嶋中野とあります。今回お訪ねした太鼓屋さんも今は国道155号線沿いにありますが以前は津島市中野町にあったそうです。
この太鼓は平成十三年(2001)に新しい太鼓が作られるまで神社の神事に使われていました。新しい太鼓が出来てから古い太鼓はお蔵入りしていました。
下の写真は現在使われている太鼓です。
古文書1-1 天明の太鼓
伊冨利部神社に現存する古文書です。この古文書には天明六年(1786) に名古屋で神楽太鼓を買ったとあります。最後尾の署名「林久太夫」はこの神社の神主で十数代続いています。名前も林久太夫を代々引き継がれています。
下記は私の古文書の先生が解読した文ですが確定出来ない所があります。
この古文書はある著名な方の読まれたもので文献になっているものがあります。それによると3行目「金弐分拾弐匁」が「金弐分拾弐朱」、10行目「惣〆壱千弐百文」が「惣〆壱〆弐百文」となっています。当時の林久太夫さんはどう書いたのか今となっては知る由もなくただ想像するだけですが次のように検討して見ました。
江戸時代流通貨幣は「金」と「銀」と「銭」が併用されていました。
金は 1両=4分 1分=4朱
銀は重さで何匁で 銀60匁=金1両 銀15匁=金1分
銭は 1貫文=1000文=金1分
銭(寛永通宝)
金2分12朱であれば12朱は3分ですから5分とすれば良い筈です。やはり何か違うような気がします。12匁であれば15匁で1分ですから1分より少し少なく済むのでそれを銀で払ったのではないかと思えます。現代で言えば 3,000円の所を2,980円とするのと似ているような気がします。
惣〆の方は6人の寄付額の合計が1,200文になるのでその事をいっているのではないでしょうか。寄付額合計と太鼓の代金と合わないと言う問題は残りますがそこはよく分からないところです。
この時代は天候不順によって農作物が不作となり大変な時でした。世に言う天明の大飢饉です。東北地方では多くの餓死者が出ています。江戸、大坂では「打ちこわし」が起き世間は荒れ狂っていました。
そのような時にこの尾張の片田舎門間村ではさほど自然災害の影響はなかったのでしょうか。暮れも押し迫った12月24日に葉栗郡門間村から20km程も離れた名古屋へ太鼓を買いに行っています。農民ですからきっと徒歩で出掛けたのでしょう。
現在神社に写真の太鼓が有ります。いかにも古そうな太鼓です。何か書かれてものはないか調べて見ましたが何も見つかりませんでした。この太鼓が古文書にある天明の太鼓である確証がなく残念です。
一ノ瀬宗辰の神馬
一宮市木曽川町の伊冨利部神社境内に青銅製の神馬が有ります。現在の物は戦後再建された物ですが初期に建立されたのは昭和11年です。古い資料の当時の金額1,500円は現在どのくらい位になるでしょうか。今神馬を新規で製作すれば数百万円は掛かるだろうと思われます。
昭和初期には各神社で昇格運動が盛んに行われた時期がありました。その時各神社がこぞって神馬、鳥居等を造ったようです。伊冨利部神社は昭和4年県社に昇格しています。そして昭和5年には入り口に有る石柱、石の大鳥居、赤門前の石燈籠、拝殿前の駒犬等が作られています。昭和7年には藩屏その後に神馬と順次お宮が立派に見える様に整備されています。
寄附者 加藤辰次郎 名古屋市中区西瓦町七十四番地 毛布角巻製造業
御神馬銅像及石臺 檟格 壱千五百円
太平洋戦争時に兵器製造の為に国中より金属を強制的に供出させられた歴史がありました。(当神社の神馬の台座には昭和十八年太平洋戦争に出征と刻まれています)
それに依り神社の神馬、寺の鐘が消えて台座、櫓だけが残された状態がいたる所にありました。それが何時の頃から徐々に復元されて現在では神社の馬無しの台座とか寺の鐘無し櫓などは殆ど見かけなくなりました。戦後の復興が進み世の中が安定して生活にも余裕が出て来たのでしょうか。
当神社におきましても昭和39年に高岡市の一ノ瀬宗辰氏に依る神馬が再建されております。
ふとした事で近くのお宮によく似た神馬が有る事に気が付きました。ちょっと調べて見ましたら一宮市内に一ノ瀬宗辰作の神馬が随分沢山有る事が分かりました。この事に付いて今伊勢町の石刀神社の宮司さんに伺ったところ一ノ瀬氏が最初に神馬を手がけたのは石刀神社の物であると言う事が分かりました。石刀神社の神馬は昭和38年に再建されています。神馬再建にあたり初めは神社惣代 さん達で大阪に行き何処か製作してもらえる所がないかと探したそうです。そうしたら高岡の方が良いと言われたのでそちらの方を訪ねて行きそこで一ノ瀬宗辰氏と出会製作を依頼する事になった様です。
製作を始めるのに先ず原型師が卓上サイズの物を作り検討しそこで煮詰まってから実物大の製作に掛かったとの事でした。
その当時はまだ普通に身近な所に馬が居て馬に詳しく依頼者側(宮司、氏子)からの耳の形がどうとか、血管の出方がどうとか注文が多く製作者が音を上げる事もあった様です。採算も合わなかったみたいです。しかしそのお陰かどうか分かりませんが翌年の昭和39年には隣の当伊冨利部神社に一ノ瀬氏による神馬が建立される事に成ります。その後他にも近隣では一ノ瀬氏に依る神馬がいくつも作られています。
石刀神社には暫く夏になると高岡からスイカが送られて来ていたそうです。そして他県からの問い合わせも何度かあった様で実際には全国的に一ノ瀬氏作の神馬はもっと沢山あるだろうと思われます。
一ノ瀬家は明治に初代長太郎が鋳銅職をはじめ二代目宗右衛門(宗真)、三代目辰男(宗辰)、四代目新太郎(宗辰)と続いています。元々茶器、花器を多く製作していて高岡市では高岡銅器の振興にも尽力されています。しかし神馬の製作は余り知られていない様です。
そんな事で神馬の古里の高岡市を見たくなり高岡市まで訪ねて行く事にしました。高岡銅器は1600年代初頭に加賀藩2代藩主前田利長が大阪河内より7人の鋳物師を呼び寄せた事に始まります。当初は鍋釜鋤鍬等を作っていたのですがそれが銅器に変わっていきます。今では全国の銅器のシェアの90%を占めるまでに成っています。
技術的には分業化が進み「原型作り」「鋳造」「仕上げ」「着色」の工程が有りどの工程にも熟練した職人さんが沢山みえます。
神馬の場合焼型鋳造法で「原型作り」は10分の1程のひな形原型⇨実物大粘土原型⇨外型⇨樹脂、金属等の鋳型用原型「鋳造」は鋳型用原型をもとに外型、中子を作りそれを900℃に焼いた後400℃に冷まして溶解した金属を流し込む「仕上げ」は研磨、彫金「着色」は色を塗るので無く薬品で化学反応させるといくつもの工程に多くの職人さんがたずさわっています。
そこへ何の縁もゆかりも無い私が突然訪ねて行ったのですがとても親切でいろいろな事を教えてもらいました。また人柄も良く歴史が古く素敵な史跡名跡も沢山あり高岡の良さを新ためて認識しました。
残念ながら一ノ瀬家は現在続いていない様でした。
一ノ瀬宗辰の神馬
2.昭和39年 伊冨利部神社 一ノ瀬宗辰 十六葉一重菊紋
3.昭和41年 賀茂神社 銅器製作所 一ノ瀬辰男 丸に立ち葵紋
4.昭和43年 大神神社 一ノ瀬銅器製作所 一ノ瀬宗辰 三枚並び柏紋
一宮市花池2-15-28
5.昭和49年 八幡社 一ノ瀬美術銅器製作所 一ノ瀬宗辰 丸に梅鉢紋
日進市梅森台1丁目177
6.昭和50年 亀山神社 一ノ瀬美術銅器製作所 一ノ瀬宗辰 輪違い紋
呉市清水1-9-36
7.昭和52年 爾波神社 一ノ瀬美術銅器製作所 一ノ瀬宗辰
一宮市丹羽字宮浦
8.昭和52年 提治神社 一ノ瀬高級美術銅器製作所 菱菊紋
一宮市小信中島宮浦780-1
9.昭和55年 二荒山神社 一ノ瀬高級美術銅器製作所 一ノ瀬宗辰 左三つ巴紋
宇都宮市馬場通り1-1-1
10.昭和57年 大日比野神社 一ノ瀬高級美術銅器製作所 五三桐紋
一宮市大日比野字北流1907番地
11.昭和60年 若栗神社 一ノ瀬銅器製作所 五三桐紋
一宮市島村裏山75
12.平成13年 貴船神明 明記無し 九枚笹紋 (一ノ瀬氏作の確認済)
13. 不明 若宮神明社 一ノ瀬銅器製作所 花菱紋
一宮市奥町堤下2-95
一ノ瀬宗辰作の神馬は全国的に見ればもっと沢山有ると思われますが取りあえず身近な
所から見つける事が出来た物だけをまとめて見ました。
たいていの物は台座か石標等に製作者と製作年度が表記されていますが中には分からな
い物がありました。又製作者名は時期に依っていろいろと違った表記がありました。
馬の形に付いて気が付いた事があります。最初に作られた石刀神社の馬だけ後足が本共しっかりと地面に付いていますが他の物は片足が歩みかけています。前足も片方折れ曲がっていますがもう一方の足は最初の物だけ少し後ろに引かれていますが他の物は前に突き出しています。向きは設置場所に依ると思われますがそれぞれ左向き、右向きがあります。
1.石刀神社 昭和38年
2.伊冨利部神社 昭和39年
3.賀茂神社 昭和41年
4.大神神社 昭和43年
5. 八幡宮(梅森坂) 昭和49年
6.亀山神社 昭和50年
7.爾波神社 昭和52年
8.堤治神社 昭和52年
9.二荒山神社 昭和55年
10.大日比野神社
11.若栗神社 昭和60年
13.若宮神明社